PLAYER BUFFALOES

  • 鈴木 啓示 Keishi Suzuki
  • 佐々木 恭介 Kyosuke Sasaki
  • 梨田 昌孝 Masataka Nashida
  • 小池 秀郎 Hideo Koike
  • 赤堀 元之 Motoyuki Akahori
  • 大塚 晶文(晶則) Akinori Otsuka
  • 高村(髙村)祐 Hiroshi Takamura
  • 佐野 重樹(慈紀) Shigeki Sano
  • 吉井 埋人 Masato Yoshii
  • 的山 哲也 Tetsuya Matoyama
  • フィル・クラーク Phil Clark
  • 吉田 剛 Takashi Yoshida
  • 礒部 公一 Koichi Isobe
  • 清川 栄治 Eiji Kiyokawa
  • 村上 隆行(嵩幸) Takayuki Murakami
  • 北川 博敏 Hirotoshi Kitagawa
  • 山崎 慎太郎 Shintaro Yamazaki
  • 山下 和彦 Kazuhiko Yamashita
  • 光山 英和 Hidekazu Mitsuyama
  • 岩隈 久志 Hisashi Iwakuma
  • 京セラドーム大阪(大阪ドーム) Kyoceradome Osaka
  • 藤井寺球場 Takahisa Suzuki
  • バフィー・リード Ichiro

鈴木 啓示

Keishi Suzuki

1947年9月28日生 181㎝ 86㎏ 左投左打
育英高校→近鉄
監督在籍 1993年~1995年
390試合 183勝196敗 11分 勝率.483

現役時代は20年に渡りチームを支え、317勝を挙げた不動の大エース。
引退後は評論家生活を経て1993年、監督に就任した。
1年目の93年、滑り出しは好調だったが、4位。
94年の2年目は逆にスタートでつまずき、
首位との差は最大16まで開いたが、7月末から球団新記録の13連勝。
怒涛の追い上げで首位に立ったが、最後は西武の後塵を拝し2位。
年明けに野茂がメジャー挑戦を表明し始まった95年は序盤から厳しい戦いが続き、
大きく負けが込んだ8月に休養。
そのままユニフォームを脱ぐ、苦しい監督生活だった。

佐々木 恭介

Kyosuke Sasaki

1949年12月28日生 176㎝ 78㎏ 右投右打
柏原高校→新日鉄広畑→近鉄 ※現役選手時
監督在籍 1996年~1999年
535試合 250勝274敗 11分 勝率.477
※2003年、中日で山田監督退団後の代行監督時、
20試合(14勝5敗1分)は含まれていません。

西本(幸雄)政権の中心選手で引退後はスカウト、打撃コーチを経験し、
1996年から4年間、監督を務めた。この間の成績は4、3、5、6位。
野茂英雄、吉井理人、ブライアントら、主力選手が離れ、
チームとして厳しい時期だったが、打者では中村紀洋が一本立ちし、
投手では大塚晶文がストッパーとして成長。
熱血指導の下、次代へ期待を抱かせる戦力が育ち始め、
退団から2年後(2001年)のリーグ優勝の下地を作ったと評価する声もある。
その後は、中日でコーチ、代理監督、2011年からは女子プロ野球、
京都アストドリームスの監督も務めた。

梨田 昌孝

Masataka Nashida

1953年8月4日生 178㎝ 75㎏ 右投右打
浜田高校→近鉄 ※現役選手時
通算 1263試合 645勝594敗 24分 勝率.521
監督在籍 2000年~2004年
687試合 344勝333敗 10分 勝率.508

強肩とこんにゃく打法で親しまれた捕手として現役を引退後、
コーチ、二軍監督を経て、2000年に監督就任。
1年目の2000年は最下位に終わったが、翌2001年に一転、
いてまえ打線の攻撃力を前面に押し立て、
球団史上4度目のリーグ制覇を成し遂げた。
選手、コーチが力を発揮しやすい環境作りに目を配り、
個性的な選手の力を見事に束ねた。
2004年の球団消滅でユニフォームを脱ぎ、
2008年から北海道日本ハムファイターズの監督、
今年2013年開催のWBCではヘッドコーチを務めた。

小池 秀郎

Hideo Koike

1969年3月18日生 175cm 72kg 左投左打
信州工業高校→亜細亜大学→松下電器→近鉄→中日→近鉄→楽天
通算 309登板 51勝47敗2セーブ 防御率4.40
在籍 1993年~1999年、2002年~2004年
285登板 47勝44敗2セーブ 防御率4.40

1990年のドラフトでは、前年の野茂英雄に並ぶ八球団競合指名を受け、
交渉権を得たロッテには入団せず、社会人入りの道を選択し、
93年にドラフト1位で近鉄入団。近鉄投手で大学の先輩、
同じ左腕の阿波野秀幸より素質があると言われながら、
97年に自己最高の15勝、防御率2.96の成績をおさめ、
最多勝のタイトルを獲った。
00年、中日に移籍し、02年、近鉄に復帰すると、
オーバーハンドの先発から貴重なサイドスローの中継ぎとしても活躍。
99年シドニー五輪予選に参加している。

赤堀 元之

Motoyuki Akahori

1970年4月7日生 182㎝ 83kg 右投右打
静岡高校→近鉄
通算 380登板 58勝45敗139セーブ 防御率2.88
在籍 1990年~2004年
371登板 58勝44敗 139S  防御率2.87

1990年代、抑えのエースとして、
最優秀救援投手賞を他球団の守護神を上回る5回獲得。
近鉄には優秀な抑え投手が多数生まれたなかでも、
最も信頼のおけるストッパーとして名を残す。
新人時代、鋭いシュート、150㌔の速球を合わせて武器にして
表舞台への階段を上がっていった。
大きく振りかぶるオーバースローは、小柄な身体を大きく見せたという。
明るい性格で、現在は指導者としても活躍している。

大塚 晶文(晶則)

Akinori Otsuka

1972年1月13日生 186cm 90kg 右投右打
横芝敬愛高校→東海大学→近鉄→中日→
サンディエゴ・パドレス→テキサス・レンジャーズ
日米通算 541登板 27勝38敗176セーブ 防御率2.419
在籍 1997年~2002年
254登板 13勝20敗 120セーブ  防御率2.43

気迫あふれるピッチングが持ち味のストッパー。
1年目の1997年はセットアッパーを務めたが、
98年、守護神・赤堀元之の負傷による離脱でストッパーとなる。
ストレートに加え、スライダー、チェンジアップ、フォークを緩急自在に操って、
相手を翻弄し、2001年の12年ぶりのリーグ優勝に貢献。
その後、中日を経て、04年以降は海を渡りサンディエゴ・パドレスを経て、
テキサス・レンジャーズでも30を超えるセーブを記録している。

高村(髙村)祐

Hiroshi Takamura

1969年9月2日生 178cm 81kg(※最終177cm 82kg) 右投右打
宇都宮南高校→法政大学→近鉄→楽天
通算 287登板 83勝102敗9セーブ 防御率4.31
在籍 1992年~2004年
286登板 83勝101敗9セーブ 防御率4.26

1992年の初年度から、速球と安定したピッチングで、
チームの主軸の一角として活躍し、13勝を挙げて新人王に輝いた。
二ケタ勝利は一年目のみだったが、
96年から98年まで三年連続で開幕投手を務めるなど、
エース級の働きをみせ、96年、98年には球宴にも出場。
普段は温厚だが、マウンドでは熱血漢でもあり、
鬼気迫る投球にスタンドの応援のボルテージを上げた。
現在は指導者として活躍している。

佐野 重樹(慈紀)

Shigeki Sano

1968年4月30日生 175cm 87kg 右投右打
松山商業高校→近畿大学呉工学部→近鉄→中日→米独立リーグ等→
オリックス→米独立リーグ
通算(日本) 353登板 41勝31敗27セーブ 防御率 3.80
在籍 1991年~1999年(近鉄)、2003年(オリックス)
近鉄 340登板 40勝31敗27セーブ 防御率 3.61
オリックス 2登板 0勝0敗0セーブ 防御率21.00
近鉄&オリックス計 342 登板 40勝31敗27セーブ 防御率3.69

1991年の1年目から中継ぎ投手として活躍。
95年には10勝を挙げ、96年にはリーグ最多の57試合登板を果たすなど、
実力を発揮し、中継ぎとしては初めての年俸1億円プレーヤーとなった。
太めの体型と投球中に帽子を落として、
光る頭を見せる「テカテカ投法」で話題を提供し、
チームのお笑い担当としても人気選手だった。
現役時代から話術もプロ並みで、
引退後の現在はユーモアたっぷりの語り口で解説も務めている。

吉井 埋人

Masato Yoshii

1965年4月20日生 188cm 95kg 右投右打
箕島高校→近鉄→ヤクルト→ニューヨーク・メッツ→コロラド・ロッキーズ→
モントリオール・エクスポズ→オリックス→ロッテ
日米通算 547登板 121勝129敗62セーブ 防御率 4.14
在籍 1990年~1994年(近鉄)、2003年~2004年(オリックス※~2007年)
近鉄 118登板 23勝22敗17セーブ 防御率 3.75
オリックス 71登板 16勝28敗 1セーブ 防御率4.99

1980年代後半、仰木彬監督が率いた黄金時代から抑えとして活躍。
ピッチングでは野茂英雄に習ったフォークが武器で、
また球史に残る88年の「10・19」で判定に熱くなる場面を見せるなど、
まさに熱血漢を絵にかいたような投手だった。88年は10勝24セーブを挙げ、
34セーブポイントで最優秀救援投手にも輝いた。
95年以降、ヤクルト、2000年からはニューヨーク・メッツをはじめ
メジャー・リーグ3球団に籍を置き、その後、日本球界に復帰。
オリックス、ロッテでも登板している。

的山 哲也

Tetsuya Matoyama

1970年10月1日生 178cm 83kg 右投右打
福崎高校→新日本製鉄広畑→近鉄→オリックス→ソフトバンク
通算 1026試合 423安打 40本塁打 201打点 打率.206
在籍 1994年~2004年(近鉄※2005年~2007年オリックス)
843試合 355安打 35本塁打 177打点 打率.196
(オリックス 143試合 48安打 4本塁打 15打点 打率.212)

強肩と投手陣から厚い信頼を寄せられたメガネの強肩捕手。
打撃では、決して打率が高いことはなかったものの、
他の強打者が打ちあぐねていた投手から突如、猛打賞を記録し、
「びっくり箱」と称されるほど、意外なところでの活躍が光り、
ファンの記憶に残る意外性の近鉄を表す象徴的なプレーヤーだった。
2002年、欠場選手の代役として出場したオールスター戦の第2戦でも、
クリーンヒットを放ってMVPにも輝いた。

フィル・クラーク

Phil Clark

1968年5月6日生 182cm 90kg 右投右打
クロケット高校→デトロイト・タイガース→サンディエゴ・パドレス→
ボストン・レッドソックス→近鉄
日米通算 734試合 705安打 110本塁打 389打点 打率.299
在籍1997年~2000年
470試合 555安打 93本塁打 324打点 打率.305

低く構えた広角打法で、確実に走者をかえせる信頼性も高かった。
1997年、同期入団したタフィ・ローズよりも日本野球への順応は早く、
功績でも実働4年で3割を誇り、97年には打率.331をマークし、
イチローがいなければタイトルを取れたであろう好成績を記録。
その年以降、3年連続でベストナインにも選出され、
在籍時の4年間はすべて2ケタ本塁打の記録も残している。
細かいプレーにも気を配る好助っ人外国人選手だった。

吉田 剛

Takashi Yoshida

1966年11月28日生 176cm 79kg 右投右打
取手第二高校→近鉄→阪神
通算 1012試合 478安打 18本塁打 166打点 打率.243
在籍 1990年~2000年
813試合 430安打 16本塁打 153打点 打率.244

1984年、取手二高の主将として夏の甲子園で優勝を経験し、
85年の高卒入団1年目から一軍入りを果たす。
レギュラー定着は難しかったが、俊足を武器に92年に27盗塁を記録し、
その前後の4年間も2ケタ盗塁をマーク。
内外野複数のポジションを守れるユーティリティープレーヤーとして、
また大きな声を出してチームを活気づけるムード―カーとしても
チームにとって貴重な存在だった。

礒部 公一

Koichi Isobe

1974年3月12日生 174cm 76kg(最終82kg) 右投左打
西条農業高校→三菱重工広島→近鉄→楽天
通算 1311試合 1225安打 97本塁打 517打点 打率.281
在籍 1997年~2004年
916試合 849安打 72本塁打 369打点 打率.289

1996年のドラフト指名後、迷う礒部に、
ヘリコプターで臨んだ佐々木恭介監督が直接交渉で入団を決意させた。
97年の入団時の捕手から外野手に転向して活躍をみせる。
01年の優勝時には打率.320、17本塁打、95打点をあげ、
12球団一ともいわれた中村紀洋、タフィ・ローズとのクリーンアップの一角、
「恐怖の五番打者」として恐れられた。
また、04年のチーム統合をめぐる動きのなかで、
近鉄選手会長としての奮闘ぶりが記憶に残る。

清川 栄治

Eiji Kiyokawa

1961年9月21日生  176cm 75kg 左投左打
京都商業高校→大阪商業大学→広島→近鉄→広島
通算 438登板 13勝10敗12セーブ 防御率2.94
在籍 1991年~1997年
216登板 7勝7敗9セーブ 防御率 3.16

中継ぎの職人、ワンポイントのスペシャリストとして活躍した左腕。
1990年代後半、広島で頭角を現わし、91年シーズン途中で近鉄に移籍。
左の変則サイドスローから、対左打者一人を確実に仕留めると
マウンドを譲ることも多く、そのクールな佇まいが印象的だった。
97年、当時の日本記録、連続救援登板438試合を達成しており、
確実に抑える切り札的な存在として、常に首脳陣からの信頼も厚かった。

村上 隆行(嵩幸)

Takayuki Murakami

1965年8月26日生 178cm 81kg 右投右打
大牟田高校→近鉄→西武
通算 1380試合 916安打 147本塁打 464打点 打率.258
在籍 1990年~1999年
826試合 477安打 73本塁打 255打点 打率.255

思い切りがよくパンチ力のあるスラッガーとして活躍。
ノリのよさもあって「いてまえ打線」のムーメーカー的な存在でもあり、
20本塁打以上を2回、100試合以上出場が7回を数え、
守備では内野から外野手まで守れることもあって欠かせない存在だった。
ヒットを放った後の塁上のガッツポーズが印象的で、
その熱さとルックスのよさで女性ファンからの人気も高かった。

北川 博敏

Hirotoshi Kitagawa

1972年5月27日生 180cm 89kg(最終95kg) 右投右打
大宮東高校→日本大学→阪神→近鉄→オリックス
通算 1264試合 1076安打 102本塁打 536打点 打率.276
在籍 2001年~2004年
356試合 331安打 40本塁打 181打点 打率.296
(オリックス2005年~2012年 808試合 726安打
62本塁打 352打点 打率.274)

阪神時代、バッター、捕手の両面で目立った活躍はみせていなかったが、
2001年、近鉄移籍を機に、当時の指揮官、
梨田昌孝監督のもと、眠っていた実力が開花。
ファンのみならず記憶に残る01年の大阪ドーム(現・京セラドーム)での
代打逆転満塁サヨナラホームランでリーグ優勝を決め、
チームメートとともに大喜びするシーンに象徴されるように、
勝負強さと一発の魅力をもち、
期待に応えられるパワーヒッターとして表舞台に踊り出た。
チームの統合後の05年以降も、
笑顔をトレードマークにオリックスの主軸として活躍し、
12年、ユニフォームを脱いだ。

山崎 慎太郎

Shintaro Yamazaki

1966年5月19日 181cm 83kg 右投右打
新宮高校→近鉄→ダイエー→広島→オリックス
通算 339登板 87勝92敗 9セーブ 防御率4.19
在籍 1990年~1997年
191登板 57勝65敗 2セーブ 防御率4.21
(オリックス 54試合 3勝0敗 0セーブ 防御率6.05)

1980年代後半から90年代初期にかけ、
阿波野秀幸、野茂英雄とともに、投手陣の中軸として活躍。
独特な投球フォームからの豊富な球種と打者の打ち気をそらすような投げ分けで、
フルカウント勝負も多く、球数も多かったが、勝利を収めるケースもよくみられた。
95年には開幕投手を務め、2ケタ勝利も3度記録。
88年、89年の仰木彬監督率いる近鉄黄金時代、
ライバルでもあった西武ライオンズキラーとしても、その存在価値を高めた。

山下 和彦

Kazuhiko Yamashita

1962年11月29日生 183cm 92kg 右投右打
柳ケ浦高校→新日本製鉄大分→近鉄→日本ハム
通算 910試合 380安打 30本塁打 159打点 打率.218
在籍 1990年~1994年
260試合 92安打 5本塁打 41打点 打率.206

1980年代後半から90年代にかけて、猛牛軍団の守備の要として活躍。
古久保健二、光山英和とのマスク争いでリードやキャッチング技術に長け、
首脳陣、投手陣からも評価されて出場回数も増え、
89年、ベストナインにも選出されている。投手の育成力にも定評があり、
当時の近鉄で、山下の指導の賜物で成功した若手投手も多い。

光山 英和

Hidekazu Mitsuyama

1965年11月20日生 186cm 89kg 右投右打
上宮高校→近鉄→中日→巨人→ロッテ→横浜→韓国・ロッテ
日本通算 726試合 332安打 42本塁打 136打点 打率.238
在籍 1990年~1996年
532試合 295安打 41本塁打 130打点 打率.252

1980年代から90年代に強肩強打の捕手として活躍。
チーム内のライバル、山下和彦、古久保健二に比べ、
バッティングのよさでは一目置かれる存在で、勝負強く、
大柄な身体から放たれる豪快な本塁打が印象的で、
90年には2ケタ本塁打を記録している。
90年の野茂英雄入団以降は、バッテリーを組むことが増え、
野茂のよき女房役とともに、正捕手の座も獲得して、
その存在が大きなものとなった。

岩隈 久志

Hisashi Iwakuma

1981年4月12日生 189cm 74kg(※日本最終190cm 77kg)右投右打
堀越高校→近鉄→オリックス(※分配ドラフト)→楽天→シアトル・マリナーズ
日米通算 256登板 116勝74敗2セーブ 防御率3.25(2012年終了時)
在籍 2001年~2004年
80登板 42勝21敗0セーブ 防御率3.47

プロ2年目の2001年後半戦、西武を初完封するなど、
主に先発として4勝2敗の成績を収めてリーグ優勝に大きく貢献。
以降、02年に先発ローテーションの一角を担うと、
03年には15勝を挙げてエースに成長を遂げる。
球のキレ、制球力、駆け引きと安定感抜群の投球で、
04年には球団新の開幕12連勝を記録し、
エースとしての地位を不動のものとするが、その年にチームの統合が決定。
その端正なルックスとともに近鉄最後のエースとしても記憶に残る存在となった。

京セラドーム大阪
(大阪ドーム)

Kyoceradome Osaka

1997年2月、JR大阪環状線「大正」駅近くにできた関西初のドーム型球場。
近鉄バファローズが本拠地として、2004年のチーム統合後、05年から現在までは、
オリックス・バファローズがホームグラウンドとして使用している。
野球以外に、コンサートやイベント等を行なえるよう
多目的施設として設計されており、
また06年以降、ネーミングライツ導入によって
「京セラドーム大阪」と名を変えて全国的にも知られている。

藤井寺球場

Fujiidera Stadium

1950年に近鉄パールスの本拠地として開設。
照明設備がなかったため、試合開催は長年にわたり週末、祝日のデーゲームに限られた。
70年代になり、照明灯の設置工事に取りかかったが、周辺住民からの反発が大きく、
外野の鉄塔部分が完成したところで、約10年、工事が中断。
それが1983年9月の地裁決定により、外野スタンド最上段の防音壁設置と、
鳴り物応援の禁止を条件にナイター設備の設置を認められ、
84年からナイター試合が開催。
97年に大阪ドームが完成するまで、名実ともに本拠地として使用された。

バフィー・リード

Buffie Lead

1997年、大阪ドーム(現・京セラドーム大阪)のオープンとともに、
藤井寺球場から本拠地を替えた近鉄球団が採用した牛をモチーフにしたキャラクター。
公募によって、ネーミングされた。
藤井寺球場時代に使用していたバッファ君は基本的に二次元(平面※)だったが、
バフィーからは三次元(立体)のマスコットとして人気を博した。
仲間には女性のファルル・リーナらがいて、
近鉄統合時にも「バフィー仲間だけは残して!」という嘆願書が届いたという。
近鉄の古いイメージを変えた存在でもあった。
※公式、非公式、不明ですが、
三次元のバッファ君マスコットがスタンドにいたようです。

写真・原稿・協力/ベースボール・マガジン社