PLAYER BLUE WAVE

  • 上田利治 Toshiharu Ueda
  • 土井 正三 Syouzou Doi
  • 仰木 彬 Akira Oogi
  • 佐藤 義則 Yoshinori Sato
  • 石嶺 和彦 Kazuhiko Ishimine
  • 野田 浩司 Koji Noda
  • 平井 正史 Masafumi Hirai
  • 鈴木 平 Taira Suzuki
  • 酒井 勉 Tsutomu Sakai
  • 小林 宏 Hiroyuki Kobayashi
  • 伊藤 敦規 Atsunori Ito
  • 長谷川 滋利 Shigetoshi Hasegawa
  • 本西 厚博 Atsuhiro Motonishi
  • D・J James Douglas Jennings
  • 大島 公一 Koichi Oshima
  • 小川 博文 Hirofumi Ogawa
  • 門田 博光 Hiromitsu Kadoda
  • グリーンスタジアム神戸 Green Stadium Kobe
  • ネッピー Neppie

上田 利治

Toshiharu Ueda

1937年1月18日生 177㎝ 71㎏ 右投右打
海南高校→広島 ※現役選手時
通算 20年 2574試合 1322勝1136敗 116分 勝率.538
在籍 オリックス1990年
130試合 69勝57敗 4分 勝率.548

オリックスの初代監督。
阪急から引き続き、指揮を執ったチームは破壊力抜群のブルーサンダー打線を軸に
1989年、90年と優勝争いを演じるも、優勝には届かなかった。
その後、いったん、フロントに入ったが、95年から日本ハムの監督となり、
96年にはオリックスと覇権を激しく戦った。阪急黄金期を築いた名将で、
緻密な理論と勝負勘に裏打ちされた采配、
情熱を傾け若手を鍛え上げる指導力には定評があった。
監督としてNPB史上7位となる通算1322勝。
2003年には野球殿堂入りを果たした。

土井 正三

Syouzou Doi

1942年6月28日生 172㎝ 62㎏ 右投右打
育英高校→巨人 ※現役選手時
在籍 1991年~1993年
390試合 195勝183敗 12分 勝率.516

巨人V9時代の名手が1991年、オリックスの2代目の監督に就任。
神戸に本拠地を移し、地元出身者としても期待されたなか、
3年連続Aクラスの結果を残した。優勝争いには絡めなかったが、
チームは本拠地の広いグリーンスタジアム神戸でディフェンス面を強化し、
バランス型のチームへ移行していった時期。
基本に忠実で妥協を許さない指導を貫きながら、
この3年間が95年、96年のリーグ連覇へつながったと見る向きもある。
2009年9月に67歳で逝去。

仰木 彬

Akira Oogi

1935年4月29日生 170㎝ 67㎏ 右投右打
東筑高校→西鉄 ※現役選手時
通算 14年 1856試合 988勝815敗 53分 勝率.548
在籍
近鉄
1990年~1992年
390試合 218勝158敗 14分 勝率.580
オリックス
1994年~2001年、2005年
1206試合 625勝551敗 30分 勝率.531

5年間指揮を執った近鉄を1992年に離れ、
94年オフからオリックスの監督に就任。
無名だった鈴木一朗を「イチロー」の登録名とともに世に送り出し、
95年は「がんばろう神戸」を合い言葉にリーグ初制覇。
翌96年には巨人との日本シリーズを制し、
球団創設8年目でチームを日本一に導いた。
綿密なデータと長年の勝負勘に支えられた仰木マジックとも評された手腕で、
99年まで6年連続でAクラス入り。01年に退任したが、
近鉄と球団合併となった05年、オリックス・バファローズの初代監督として現場復帰。
病と闘いながら新生球団の道筋を作り、シーズン終了後の12月15日、
70歳でこの世を去った。

佐藤 義則

Yoshinori Sato

1954年9月11日生 181㎝ 86㎏ 右投右打
函館有斗高校→日本大学→阪急・オリックス
通算 501試合登板 165勝137敗48セーブ 防御率3.97
在籍 1990年~1998年
151試合登板 43勝41敗11セーブ 防御率3.93

1977年にドラフト1位で日本大学から阪急へ入団。
腰の強さを感じるダイナミックなフォームから
力強いストレートとタテに鋭く落ちるヨシボールを軸に44歳まで投げ抜いた。
熟練の味を発揮した90年代では93年7月に出身地の奥尻島が
北海道南西沖地震に見舞われたなか、オールスター戦で登板。
2回4奪三振の力投で故郷に力を送った。
阪神淡路大震災に襲われた95年には8月26日の近鉄戦でノーヒットノーランを達成。
当時の最年長記録、40歳11ヵ月での力投も
また復興へ向かう神戸の街に明るい話題をもたらした。

石嶺 和彦

Kazuhiko Ishimine

1961年1月10日生 174㎝ 75㎏ 右投右打
豊見城高校→阪急・オリックス→阪神
通算 1566試合 1419安打 269本塁打 875打点 打率.273
在籍 1990年~1993年
520試合 531安打 100本塁打 336打点 打率.270

1979年にドラフト2位で豊見城高校から阪急へ入団。
強肩強打の捕手として期待されたが、半月板損傷などもあり、
80年代前半は代打の切り札として、86年からはDHに定着し活躍した
86ブルーサンダー打線の一角を担った。
90年には自己最多の37本塁打に106打点で打点王も獲得。
体をしならせ、リストの利いたスイングから美しいライナー性の放った。
94年にFAで阪神へ移籍し、引退後は中日、DeNAでコーチを歴任。
今季より、打撃コーチとして20年ぶりにオリックスへ復帰した。

野田 浩司

Koji Noda

1968年2月9日生 186㎝ 82㎏ 右投右打
多良木高校→九州産交→阪神→オリックス
通算 316試合 89勝87敗9セーブ 防御率3.50
在籍 1993年~1999年
136試合 54勝35敗0セーブ 防御率3.28

阪神のローテーション投手として活躍していた1992年オフ、
松永浩美とのトレードでオリックスへ移籍。
シュート回転で食い込むストレートと伝家の宝刀フォークのコンビネーションで
1年目から17勝で最多勝に輝いた。
以降、3年連続で2ケタ勝利を挙げる活躍で、リーグ連覇にも大きく貢献。
この時期3年連続で200奪三振以上も記録し、
95年4月21日のロッテ戦では1試合19奪三振の日本記録も樹立。
オリックスのドクターKとして球史にその名を刻んだ。

平井 正史

Masafumi Hirai

1975年4月21日生 183㎝ 92㎏ 右投右打
宇和島東高校→オリックス→中日→オリックス
通算 547試合 63勝43敗41セーブ 防御率3.34 (2012年終了時点)
在籍 1994年~2002年(2013年)
169試合 29勝17敗34セーブ 防御率3.30

1994年に宇和島東高校からドラフト1位で入団。
島育ちで鍛えられた頑丈な体から投げ込む豪速球を武器に1年目の9月10日、
近鉄戦でプロ初登板を果たす。
同点の9回裏無死満塁の場面でリリーフに立ちサヨナラ負けを喫したが
仰天の仰木采配に動じることなくスピードボールを投げ込む姿に大器の予感が漂った。
すると翌年、ストッパーとして15勝5敗27セーブを挙げ、
新人王と最多セーブのタイトルを獲得。オリックスの黄金期を象徴する選手だった。
その後、中日へ移籍し10年プレーののち、今季11年ぶりにオリックスへ復帰。

鈴木 平

Taira Suzuki

1970年3月10日生 187㎝ 78㎏ 右投右打
東海大一高校→ヤクルト→オリックス→中日→ダイエー
通算 296試合 27勝20敗36セーブ 防御率3.11
在籍 1995年~1999年
234試合 22勝15敗36セーブ 防御率2.77

1995年にヤクルトから移籍すると
1年目から50試合に投げ防御率1.83の大活躍。
長い手足を巧みに活かしたサイドハンドから動くストレートと
曲がりの鋭いカーブ、シンカーを投げ込み、
野村貴仁と平井正史へつなぐ勝利の方程式を担った。
96年はシーズン半ばから抑えに転向し7勝2敗19セーブ。
巨人との日本シリーズでも勝ち試合すべてに登板し1勝、3セーブの活躍を見せた。
その後も故障を抱えながら毎年40試合以上の登板を続け、
のち中日、ダイエーで02年までプレーした。

酒井 勉

Tsutomu Sakai

1963年6月27日生 181㎝ 78㎏ 右投右打
東海大浦安高校→東海大学→日立製作所→オリックス
通算 117試合 33勝31敗14セーブ 防御率3.78
在籍 1990年~1996年
81試合 24勝24敗5セーブ 防御率3.85

1989年にドラフト1位で日立製作所から入団。
1年目は先発でスタートしたが
西武、近鉄と激戦となったシーズン半ばから抑えに転向。
チームはゲーム差なしの2位に敗れたが、9勝、9セーブの活躍で新人王に選ばれた。
沈着冷静なマウンドさばきと横手からベースを広く使った投球が持ち味で
92年にも先発で10勝をマーク。
ところが93年のシーズン半ばに難病・黄色靭帯骨化症を発症し、
以降、復活を目指すも96年にユニフォームを脱いだ。
その後、二軍投手コーチ、スカウトを務め、現在は楽天で二軍チーフ投手コーチ。

小林 宏

Hiroyuki Kobayashi

1970年11月30日生 183㎝ 83㎏ 右投右打
崇徳高校→広島経済大学→オリックス→楽天
通算 245試合 53勝47敗19セーブ 防御率4.42
在籍 1993年~2004年
242試合 53勝46敗19セーブ 防御率4.36

1992年、広島経済大学から初のプロ指名選手としてドラフト1位で入団。
1、2、8勝と順調に勝ち星を伸ばしていた3年目、
ヤクルトとの日本シリーズでオマリーと14球を要した名勝負を演じ
その名が全国に広まった。キレのいい真っ直ぐとスライダーを軸に
97年にはオールスター出場を果たし、98年には10勝、4セーブ。
99年、2000年には開幕投手も務め、2年連続で勝利投手となった。
04年の分配ドラフトで楽天へ移籍し05年に引退。
09年によりコーチとしてオリックスへ復帰し、現在は二軍投手コーチを務める。

伊藤 敦規

Atsunori Ito

1963年5月29日生 178㎝ 74㎏ 右投右打
中京高校→福井工業大→熊谷組→阪急・オリックス→横浜→阪神
通算 483試合 56勝51敗11セーブ 防御率3.76
在籍 1990年~1994年
104試合 24勝32敗2セーブ 防御率4.03

阪急ブレーブスにとって最後のドラフトとなった、1988年に1位指名で熊谷組から入団。
3年目の90年から先発として頭角を現わし、そこから3年間で21勝を挙げた。
サイドハンドからナチュラルに食い込む内角球を得意とし秋山幸二、
清原和博らが全盛期の西武キラーとしても活躍。
阪急、オリックスで挙げた30勝のうち7勝が西武から挙げたものだった。
94年のシーズン終了後に横浜へ移籍。
さらに97年にテスト入団した阪神で中継ぎとして5年連続で50試合以上に投げるなど、
息の長い現役生活を送った。

長谷川 滋利

Shigetoshi Hasegawa

1668年8月1日生 180㎝ 73㎏ 右投右打
東洋大姫路工高→立命館大学→オリックス→アナハイム・エンゼルス→
シアトル・マリナーズ
日米通算 659試合 102勝88敗37セーブ 防御率3.49
在籍 1991年~1996年
142試合 57勝45敗4セーブ 防御率3.33

1991年にドラフト1位で立命館大学から入団。
開幕から6連敗の苦しいスタートも終わってみれば12勝9敗で新人王に輝いた。
93年からも3年連続2ケタ勝利で先発陣の中心として活躍のあと、
96年オフに熱望していたメジャーへ挑戦。
セットアッパーとして常に50試合前後の登板で、
04年には自己最多の68試合を投げた。
メジャーへ移籍後、150㌔にも迫った真っすぐと
多彩な球種をコーナーへ投げ分けたが、最大の持ち味はその頭脳。
試合状況、打者心理、自らの調子を常に考え合わせ最善の投球で
日米で15年間を投げ切った。

本西 厚博

Atsuhiro Motonishi

1962年5月15日生 175㎝ 76㎏ 右投右打
瓊浦高校→三菱重工長崎→阪急・オリックス→阪神→日本ハム
通算 1389試合 700安打 22本塁打 240打点 打率.258
在籍 1990年~1997年(途中)
777試合 459安打 13本塁打 152打点 打率.262

1985年のドラフト4位で阪急から指名を受け、翌年の秋に入団。
1年目から高い守備力と実戦的な走塁が評価され、一軍戦力となる。
攻守に貴重な戦力だったが、中でも絶賛されたのが外野での守備。
打者のインパクトと同時にスタートを切り
最短距離で落下地点へ達する技術はイチローや田口も手本とした。
攻撃面でも小柄ながらコンパクトに振り切る打撃で仕事をした。
97年のシーズン中に阪神、その後、日本ハム、ロッテへ移り15年プレーした。

D・J

James Douglas Jennings

1964年9月30日生 178㎝ 89㎏ 左投左打
オークランド・アスレチックス→シカゴ・カブス→オリックス
※オリックス退団後はマイナーリーグ、独立リーグのみ。
在籍1995年~1997年
207試合 148安打 32本塁打 110打点 打率.246

本名はダグ・ジェニングス。95年シカゴ・カブスから入団すると、
仰木彬監督の発案でD・Jを登録名とした。
1年目は序盤、調子が上がらず苦しんだが、
夏場に目覚め、7、8月に連続して月間MVPを受賞。
8月8日から9日にかけては2試合で4打席連続本塁打のプロ野球タイ記録も樹立した。
96年も成績は落としたがリーグ優勝を決めた9月23日の日本ハム戦で
9回二死から劇的な代打ホームラン。
同点とし、延長でのイチローのサヨナラヒットを呼んだ。
勝負強く、何かを期待させる助っ人でファンの人気も高かった。

大島 公一

Koichi Oshima

1967年6月17日生 167㎝ 67㎏ 右投右左打
法政二高校→法政大学→日本生命→近鉄→オリックス→楽天→(オリックス)
通算 1375試合 1088安打 24本塁打 334打点 打率.261
在籍 1996年~2004年
1024試合 852安打 17本塁打 266打点 打率.264

1996年に近鉄から移籍。
イチローのあとの二番打者を任せる期待も込めてつけられた52番を背に、
1年目から二番セカンドで125試合に出場した。
堅実な攻守で初のベストナイン、ゴールデングラブ賞、日本シリーズでは
優秀選手賞も受賞。以降、8シーズンレギュラーとして活躍し、
2000年にはリーグ最多の35犠打の一方、出塁率.418も記録。
スイッチヒッターの打撃はバットコントロールと選球眼に優れ、
相手にすれば実に厄介な選手だった。05年に分配ドラフトで楽天へ移籍。
06年にオリックスへコーチで復帰し、今季は一軍打撃コーチを務める。

門田 博光

Hiromitsu Kadota

1948年2月26日生 170㎝ 81㎏ 左投左打
天理高校→クラレ岡山→南海→オリックス→ダイエー
通算 2571試合 2566安打 567本塁打 1678打点 打率.289
在籍 1990年
119試合 125安打 31本塁打 91打点 打率.280

不惑のアーチストが南海ホークスの球団譲渡に端を発したトレードで、1989年に入団。
ブーマー、石嶺和彦、藤井康雄らと形成したブルーサンダー打線の看板を担った。
1年目は持病を抱えていた石嶺の負担を軽くするため、
41歳にして外野守備にも51試合就きながら33本塁打、93打点。
試合では1㌔を超えるバットでフルスイングに徹し、
練習では通常の2倍の重さの球でティーバッティング。
己を律し、スタイルを貫いた。
90年も31本塁打、91打点の活躍を見せたがオフにダイエーへ移籍。
92年までプレーし、567本塁打、日本歴代3位の大記録を残し44歳で現役を引退した。

佐藤和弘(パンチ)

Kazuhiro Sato

1964年12月3日生 177㎝ 78㎏ 右投左打
武相高校→亜細亜大学→熊谷組→オリックス
在籍 1990年~1994年
149試合 71安打 3本塁打 26打点 打率.274

1990年にドラフト1位で熊谷組から入団。
1年目は社会人時代から定評のミート力で規定打席不足ながら3割台の数字を残した。
その後も主に代打としての出場で、レギュラーを奪うまでには至らなかったが、
天性の明るさと抜群のコメント力でチーム一の人気者だった。
94年、仰木彬監督の後押しもあり、
シーズン前にイチローとともに登録名を変更し「パンチ」となった。
しかし、成績は振るわず、進退を相談した仰木監督から
「芸能界のトップバッターを目指せ」と激を受け、引退を決意した。

グリーンスタジアム神戸

Green Stadium Kobe

神戸総合運動公園の敷地内に1988年に完成。
89年から準本拠地、91年からは本拠地となった。
阪神・淡路大震災が発生した95年には、
「がんばろう神戸」を合い言葉に戦うチームを後押しするファンが連日つめかけ、
翌年のリーグ制覇、日本一の胴上げはともにこの地で行なわれた。
03年にネーミングライツ導入により、Yahoo!BBスタジアム、
05年にスカイマークスタジアム、
11年からはほっともっとフィールド神戸に改称し、
近鉄との統合以降は再び準本拠地として使用。
2000年以降は「ボールパーク構想」と題し、内野に天然芝を敷き、
スタンド部分の金網を下げ、さらにフィールドシートを設置。
緑に囲まれ、解放感にあふれたスタジアムは、
ファンだけではなく選手間からも高い人気を誇る。

ネッピー

Neppie

1991年、阪急時代からのマスコット、「ブレービー」を継ぐ形で海の神、
ネプチューンの子、ネッピーが誕生。
球団名をブルーウェーブとし、本拠地を西宮から神戸へ移した
タイミングでのマスコット交代だった。
98年からはネッピーに助けられた海賊の娘、リプシーとコンビを組み、
愛くるしい動きで子供たちの人気者となった。
そして、誕生から20年となった2010年のシーズン終了後にそろって勇退。
11年1月に神戸でお別れ会を開催し、大海原へと帰っていった。

写真・原稿・協力/ベースボール・マガジン社