平成を代表する“名将”のひとり、仰木彬監督。
独特の采配は「仰木マジック」と呼ばれ、
`近鉄・オリックスで三度の優勝を成し遂げた。
新たな時代を迎えようとしているオリックス・バファローズ。
平成という時代を駆け抜けた偉大な監督に敬意を表し、
平成最後の試合に、日本一へと導いた、このユニフォームを身にまとう。
OSAKA KINTETSU BUFFALOES
オリックスの監督、コーチ、選手全員が4月29日の西武戦(京セラドーム)で背番号72を着ける。同日は名将・仰木彬氏の生誕の日。『72』は同氏が着けた番号だ。 そんな仰木氏が「監督」として活躍した「平成」が幕を閉じる前に、“名将”の栄光の歴史を『近鉄編』『オリックス・ブルーウェーブ編』『オリックス・バファローズ編』の 3回に分けて、週刊ベースボールONLINEで振り返っていく。
近鉄、オリックスの監督として通算14シーズン、3のリーグ制覇、日本一1回。監督通算988勝は歴代13位の記録だ。
セオリーにとらわれず、状況に応じて、臨機応変に動くその采配は「仰木マジック」と呼ばれた。しかし、それは単なるひらめきや、その場の思い付きなどでは、決してない。試合前、分厚いデータを徹底的に読み込み、相手の打順、投手陣の顔ぶれを分析し、頭の中で、常に「攻略法」を考え、何度もシミュレートしていたという。
2019年から、中日の一軍打撃コーチを務める村上崇幸は、近鉄の監督時代の仰木に、忘れられない強烈なシーンがあるという。ある選手に本塁打を浴び、スコアボードに「1」が記された後、試合が再開された。投手はもう、次の打者に投球していた。
「なんでや」
仰木が周囲を見回し、だれかれ構わず、怒鳴り上げていた。
「おい、なんであそこに1点が入っているんだ。どういうことや」
ベンチの脇にある、グラウンドに出るための数段のステップに片足をかけ、その太モモの上にヒジを置き、戦況を見つめているのが、仰木のいつもの姿だ。その手に握られたボールペンの芯を出し入れする「カチカチ」という音も、よく聞こえたという。
「あの、いつものポーズですよ。微動だにしていなかったんです。それなのに、叫び出したんですよ。びっくりしました。見てなかったんかい? ってことですよ。嘘でしょ? と」
頭の中は、常に「野球」だった。勝つために、一手先、二手先の試合展開を予測し、何通りもの策を考えているあまりに、目の前のグラウンドでの状況すら、見えなくなっていたのだ。
「怖かったですよ。野球に関しては本当に真剣だった」
そう語る村上は、関西独立リーグの06ブルズの監督を10年間務め、今季から初めてNPB球団の指導者になった。だからこそ仰木の思いが今、実感として、よく分かるのだという。
「10・19」――。仰木を語る上で欠かせない名勝負は、近鉄の監督としての1年目、1988年だった。ロッテとのダブルヘッダーで、連勝すれば優勝。負けられない第1戦。意気込む当時22歳の村上の名前は、スタメンに記されていない。
「ええところで行くからな」
仰木には試合の展開が見えていたのだろう。だから、気持ちの強い村上を勝負どころで使うつもりで控えさせていたのだ。ビハインドの8回、仰木が満を持して「代打村上」を告げると、村上は同点ヒットを放った。
「対戦成績、球場、場面、個人の性格。それをすべて分かって使う。だから準備ができる。この場面は俺だ。そう思っていたら、起用も俺。自分たちで分かるし、そこで使ってくれる。仰木マジックがあてはまったから、活躍できたんですよ」
その「勝負師」の発想に、村上はいつも、感服させられたという。
「セオリーって、あると思うんですよ。でも、逆も必要なんですよね」
連敗が続く。よくあるのは、遠征先での外出禁止。反省の意味をこめてのものだ。しかし、仰木は正反対だった。
「ええか、野球は勝ったり負けたりや。だから、この後は勝ちが続く。よっしゃ、今日は気分を変えよう。門限はなしや。遊んで来い」
村上も、夜の街へ飛び出した。気兼ねなく、痛飲する。すると、翌朝になると、不思議と「やらなきゃ」という思いになってくるのだ。
「仰木さんが率先して遊んでいるように見えましたけど、そう見せるの、うまかったんですよ」
村上が、懐かしそうに振り返ってくれたのは、いつも上半身裸で外野のフィールドを走る仰木の姿だった。周囲には「昨日の酒を抜いとるんや」と言い放ち、笑わせる。しかし、そのときにも、緻密な計算があった。
ランニングをしている投手陣に向かって、仰木が走ってくる。そのすれ違いざまに、声をかけてくるのだという。
92年、ドラフト1位で近鉄に入団し、現在はソフトバンクの一軍投手コーチを務める高村祐は、その“耳打ち”が、印象に残っているという。
「呼ばれて、説教されたりすることなんて、なかったですね。監督が前から、汗を流しながら走ってくるでしょ? すれ違うときに、一言二言おっしゃるんですよ、何気なく」
監督が呼び止め、グラウンド上で話したり、監督室に呼んだりすれば、周囲に感づかれる。故障か、二軍落ちなのか、妙な憶測も呼んだりする。ところが、上半身裸でのランニング中に、アドバイスや心構えを伝授しているとは、誰も思わないだろう。
「周りから見ていたら、絶対分からない。それが当たり前。僕が新人王を獲れたのも、監督のおかげです」
萎縮することなく、ノビノビ、マイペースでやらせてもらえた。高村も仰木への感謝は尽きないという。
現在、西武の巡回投手コーチを務める清川栄治も「かしこまって話をすることは、まったくなかったですね」と証言する。起用法や采配に関しても、選手に直接、その意図や狙いを説明することも、ないのだという。
「でも、終わってみたら、その狙いが分かるんです。それだけ選手のことを、本当に見てくれていたということですし、仕事をさせて、さらにやる気にさせてくれた方でした」
そう語る清川は、91年のシーズン途中、広島から移籍してきたサウスポーだ。97年には当時のプロ野球記録となる「438試合連続救援登板」を達成することになる「左殺しのスペシャリスト」を、仰木はことのほか、重宝した。
その清川の名前が、パ・リーグのレコードブックに刻まれることになったのも「仰木マジック」のなせる業だった。
92年5月15日。福岡・平和台でのダイエー(現ソフトバンク)戦で、清川は6回からリリーフのマウンドに立った。8回、三番・藤本博史に四球を許し一死一塁。四番は右打者のブーマーだが、五番・山本和範、六番・門田博光、七番・吉永幸一郎、八番・浜名千広と、左打者がずらりと並んでいた。
仰木が、ベンチを出てきた。清川は、仰木が村田球審に話しかける声が、よく聞こえたという。
「むらちゃん、清川、ファーストにしようかと思うんや。どうかな?」
「ええんとちゃいますか」
「そうやろ。じゃ、一塁に清川」
マウンドには、右腕の山崎慎太郎を送り込んだ。思わず目を見合わせる内野陣。それもそのはず。75年にパ・リーグで指名打者制が採用されて以来、投手が守備位置についたケースは、これが「初」だったのだ。
これぞ「仰木マジック」だ。
「ブーマーのところで行くぞとは言われていたんですけど、キヨさんが一塁に残るとは言われてなかったですよ。だから、ん? みたいな。マウンドに行ったら、みんな笑ってるもん」
現在、野球評論家として活躍しながら、天理高で投手コーチも務める山崎も、四半世紀以上前のシーンを思い出しながら、笑っていた。キャンプで練習したことも、起用法を説明されたこともない。それでも、仰木は何の迷いもなく“史上初の奇策”を打ち出してきたのだ。
清川は、自分の投手用のグラブのまま、一塁に就いた。山崎がセットポジションに入る。すると、捕手からのサインは「けん制」だった。
捕手のサイン、つまり、ベンチからの指示だ。仰木も、この場面を楽しんでいるのが分かる。ブーマーは、初球を打って三塁ゴロ。石井浩郎が一塁の清川へ送球してアウトに仕留めた。だから、清川の生涯記録には、一塁手として、刺殺「1」がついている。
仰木が、またベンチを出てきた。清川を再びマウンドへ戻すと、8回二死から最後まで投げさせた。チームは勝利を収め、清川にセーブがついた。
山崎は当時、ブーマーに「相性がよかったんです。仰木さんの中で、あそこでのブーマーがいやだったんでしょ」と振り返る。それは、データに基づき、試合状況を見て、そこに現場の空気を加味することで、仰木が導き出した結論であり、それをちゅうちょなく実行するのだ。
ただ、事前の説明がないから「コーチ陣とは衝突しちゃうんでしょうね」と山崎。権藤博、山田久志ら、仰木のもとで投手陣を預かったコーチは、何かと衝突するケースが多く、スポーツ紙をたびたび騒がせた。
「でも、たいてい、うまくいくほうが多いんですよ。だから、選手も何も言わないし、むしろ、使ってもらったという思いの方が、選手は大きいんですよね」と山崎は言う。
「総合プロデューサーですね」
仰木という指揮官を表現してほしいという問いに対する、清川のシンプルな答えが、これだった。
「できると思うからやるんですよね。奇想天外、びっくり箱。さりげなく、そして、目が飛び出るようなことをやる。奥深いですよ。そうか、と後で気づくんですよ」
清川も、指導者になって、仰木の思いや意図が、ふと分かる瞬間があったという。起用した若手投手が好投している。もうちょっと、いけるかもと思いながら「ええところでやめさせるようにするんです」という。
「役割は果たした。だから、それでもうええと。次にいいイメージにつながるじゃないですか、そのほうが。ええところで下ろす。温めておいて、いいところで使う。そういうことを、考えるようになりましたよね」
それが「仰木イズム」でもある。清川にとって、仰木のもとでプレーしたのは91年途中からの1年半。それでも、仰木からの学びは多かった。
清川は、近鉄監督を退任する仰木に、あるお願いをした。
「仰木さんの『健脚』にあやかろうと思って」と、仰木の着用する「白いストッキング」をもらいに行った。
「よっしゃ」と、快くストッキングを譲ってくれた仰木は、清川が持参した色紙に、サインも記してくれた。
「一生懸命」
その添え書きは、仰木のモットーだった。清川は、何度となく、仰木からその言葉をかけられたという。
「キヨ、頑張らんでええ。でも、一生懸命にやれ」
奔放なようで緻密。選手を信じ、常にじっと見守る。そして、野球に対して、誰よりも「一生懸命」だった仰木のマネジメント・スタイルは、近鉄監督を退任して2年後の94年、オリックスの監督に就任してから、さらに大きな実を結ぶことになる。
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ORIX Blue Wave
仰木彬は、近鉄での5年間の監督生活で、1989年のリーグ優勝を含め、すべてAクラス入りを果たした。
「仰木マジック」と称された大胆な采配と、的確な選手起用は球界内でも高い評価を生み、近鉄監督退任直後から、監督就任への打診が、水面下では相次いでいたともいわれている。
引く手あまたの仰木が、次なる挑戦の場として選んだのが、近鉄のライバルで、同じ関西の神戸を本拠地とするオリックスだった。その当時、オリックスも84年を最後に、長く優勝から遠ざかっていた。若き逸材が多いという評判で、むしろ「なぜ勝てない?」と言われていたころだった。
近鉄監督の退任からわずか1年。94年にオリックス監督に就任した仰木が、その“マジシャンぶり”を発揮するのは、ここから8年間の監督時代と言ってもいいだろう。
そして就任直後、仰木は後に「希代のスーパースター」となる、一人の若者と出会い、その育成手腕やチームマネジメントの巧みさに、世間から後に大きな注目が集まることにもなる。
仰木の近鉄監督時代、二番打者として活躍した新井宏昌(現ソフトバンク二軍打撃コーチ)は、仰木が近鉄監督を退任した92年に現役を引退。野球評論家を1年間務めた後、仰木に請われ、オリックスで初めてのコーチ職を務めることになった。
通算2038安打、87年には首位打者にも輝いたシュアな左バッター。その卓越した技術と理論を、仰木は高く買っていた。
まだ現役時代のことだ。「ちょっと来てくれ」と仰木に呼ばれると、新外国人候補のビデオを見せられ「どう思う?」。一介のプレーヤーに、意見を求めたのだ。
一軍打撃コーチへの就任要請を受けた当時、新井は41歳。しかし、仰木にとって、若いとか、コーチ経験がないとか、そういった序列や縦社会の理屈など、全く関係ない。
「頼んだぞ」
一軍の打撃コーチを、専任で務めるのは、新井1人。つまり、指導歴のない、コーチ1年目の新井に、打撃部門を任せたというわけだ。「だから、自分のアイディアとか思いを、最初から出させてもらえた」と、大きなやりがいを感じていた新井が、仰木に強く推薦した1人の若手選手がいた。
「誰が見ても、この選手はいいと思います。レギュラーで使わない手はないでしょう」
それが「鈴木一朗」だった。プロ3年目を迎えたばかりの20歳。身長180センチ、体重71キロと、当時はなんとも華奢な外野手だった。
仰木も、ハワイでのウィンター・リーグを視察して、その高いポテンシャルに着目した。宮古島キャンプやオープン戦を通して「こいつはええぞ」とマスコミにも積極的にアピール。シュアなバッティング、のびやかな動き、守っても強肩、しかも俊足。無名の若手が感じさせる可能性に、仰木も完全に惚れこんでしまった。
「イチローの実力を認めたんですね。これはブレークするから、使い続ける。仰木さんは、やれると思ったらずっと使うんです」
イチロー抜擢の経緯を間近で見続けてきた横田昭作・現オリックス球団本部長補佐は当時、広報部員だった。仰木は、若きレギュラー候補を売り出すことで、オリックスの“変身”をアピールする。その中で、ある奇抜なアイディアを繰り出してきた。
「鈴木」という、日本人によくある苗字では、ちょっと目立たない。この逸材を売り出すために、仰木がひらめいたというプランは「イチロー」というカタカナでの登録だった。
横田は、広報部として「面白いアイディアだなと思いました」と即座に賛同した。ただ「1人だけだったら、違和感があるじゃないですか。そこを配慮したんでしょうね。仰木さんがうまかったのは、そこですよ」と横田。
確かに「イチロー」という前例のないカタカナ登録とはいっても、まだほとんど実績のない、無名の鈴木一朗という選手では、ただの物珍しさだけで、話題も途切れてしまう。
そこで仰木はもう1人、このプランに組み入れることにした。パンチパーマやユニークな発言で、そのキャラクターが際立ち、仰木がすでに「スポークスマン」として指名していた、当時5年目の外野手・佐藤和弘だった。
「パンチ」と「イチロー」
2人同時に、登録名をカタカナにする。すると、メディアの注目は、まず言動が目立つ「パンチ」に向く。そのついでに「イチロー」も露出する。そうすれば、活躍して目立ち始めたときに「仰木監督が絶賛していたあの選手だな」と思い出してくれる。
そうしたマスコミ対応も、仰木はお手の物だった。そして、仰木の目論見は見事に的中した。それどころか、仰木の想像すらはるかに超えた大ブレークを果たし、日本中にイチロー・フィーバーを巻き起こすことになるのだ。
一番・イチロー、二番は当時33歳のベテラン・福良淳一(前オリックス監督、現・育成統括ゼネラルマネジャー)だった。
福良は右打ちやバントなど、チームバッティングをそつなくこなせる。堅実な二塁の守備でも、その年に二塁手連続無失策守備機会836の日本記録を達成。まさしく仰木野球には、不可欠なプレーヤーだった。
イチローという、打って走れる若きスターとの一・二番コンビ。ただ、その意図を仰木から説明されたことは一度もなかったと、福良は笑いながら説明してくれた。
「ホントに何も言われたことがない。練習でも、ゲームでも、会話という会話、したことなかったと思うよ」
それは、仰木からの信頼の証でもある。福良なら、イチローの良さや、さらなる能力を、きちんと引き出してくれる。それは、新井に対しても同じだった。近鉄時代、大石大二郎(元オリックス監督)が一番、新井が二番を務めていたが、新井に対して、直接の指示も、サインもなし。
「大石と2人でノーサインでした。それは、プレーヤーとして、信頼されていたということなんでしょう」と新井。仰木は、やれると確信しているからこそ、新井にも福良にも、全面的に託していたのだ。
仰木は、イチローに対しては、出塁したら「いつ走っても構わない」と告げていたという。つまり、盗塁に対しては「グリーンライト」。だから福良は、イチローに対して「走れないときだけ、サインをくれ」と要望した。
イチローから、フラッシュサインが出たら、福良はその時、最初から打って出る。しかし、それがなければ、イチローの動きや、相手の守備隊形や保守の警戒ぶりを見ながら、打たずに状況を見る。
そうした難しい制約のかかった中で、通常のプレーができる選手など、なかなかいない。福良は94年、114試合出場で打率.301をマーク。そのとき、イチローの打率は.385だから、何とも恐ろしいコンビでもあった。
「あのときのメンバーは、個々で考えられるというかな、レベルが高かったですよ。スタメンでも、途中から行くメンバーでもね」(福良)
当時、仰木の組む打線は「日替わりオーダー」「猫の目打線」と揶揄されることもあった。相性、球場、調子によって、前日に本塁打を打った好調な選手ですら、翌日にはスタメンから外すことがあり、就任1年目の94年には、130試合中、121試合で違ったオーナーを組んだ。
そんな中でも、一番・イチロー、二番・福良のコンビは、130試合のうち90試合で組まれた。イチローが一番を務めたのは110試合で、残る20試合での二番打者は6人も使っている。
翌95年、福良は6月に右膝十字靱帯断裂の大けがを負ったことで、シーズン中盤以降の二番打者は、入れ替わり立ち替わりの7人を起用。どれだけ仰木が、福良というイチローへの“アシスト役”を重視し、信頼していたかが分かるだろう。
そうした仰木の大胆な選手起用や戦略が実り始め、オリックスは常に上位争いを繰り広げる。チームをけん引するイチローの打棒も止まらない。仰木1年目の94年、6月の大阪・日生球場での近鉄戦で、イチローの打率が「4割」を超えた。
イチローという若きスーパースターの誕生に、取材も殺到した。広報にとっては、かつてない大反響に、うれしい悲鳴だった。当時、まだ携帯電話やメールがない時代。取材申請は、球団への電話とFAXだった。
試合を終え、遠征先のホテルに帰ると、ホテルに届いたメッセージとFAXは、これまでならドアの隙間から滑り込まされていたが、イチローへの取材依頼が相次ぎ、その申請書類などがドアの隙間から入り切らず、横田の部屋の前には、毎晩、数センチの束となって積まれていたという。
そんな日本中の注目を浴びる中でも、イチローは打ちまくった。94年、史上初のシーズン200安打超えとなる210安打を放ち、打率.385で首位打者とパのMVP。
「イチロー」は、その年の流行語大賞にも輝いた。球団の観客動員も、当時の球団史上最高となる140万7千人をマーク。まさしく、仰木の演出したイチロー旋風が吹き荒れた1年だった。
その年は2位に終わったが、仰木には確かな手ごたえがあった。野手ならイチロー、田口壮、藤井康雄、投手でも佐藤義則、野田浩司、星野伸之。投打ともに多彩なタレントがそろい、若手、中堅、ベテランのバランスもよくチームがうまくかみ合っている。
これなら、優勝できる――。
勝負の2年目を迎える、その矢先だった。95年1月17日、本拠地・神戸に壊滅的な被害をもたらす「阪神大震災」が発生したのだ。
「絶対に勝つ。その強い思いはあったと思いますよ。戦力では、やれる自信はあったと思う。でも、口では選手に『震災が……』とは言わなかったと思います。ただ、自然とそういう流れにもっていくのは、うまかったです」
横田が証言するように、仰木は「神戸のために」といった、感傷的な言葉を使って、全体ミーティングを行ったりすることなどは、一切なかったという。
福良も「それ、よく聞かれるんだけど、ほんとに、そういうのはなかったんですよね」と証言する。
キャンプインは、1月17日の震災から、わずか2週間後。避難先や、片付けの終わらない自宅から、キャンプ地の沖縄・宮古島へ、各人がそれぞれの都合に合わせて向かった。テレビを見ながら、被害のないキャンプ地で野球をやっていることへの罪悪感すら、選手の中には、あったという。
焦り、葛藤、迷い。
そんな選手たちに、仰木はただ「ケガをせんようにやれよ」。意気込みすぎず、入れ込みすぎず。その巧みな手綱さばきで、95年の戦う態勢を築いていく。
「ここで逃げたら、神戸の球団ではない」という宮内義彦オーナーの強い意向で、オープン戦も予定通り、本拠地・神戸で開催。本拠地のグリーンスタジアム神戸の近くにも仮設住宅が建てられ、その仮の住まいから、被災者たちが球場に通い、オリックスに声援に送った。
「がんばろうKOBE」のワッペンを、ユニフォームの右袖に着けて戦い続けた95年、6月に西武を抜いて首位に立つと、トップを快走。最終的には2位のロッテに12ゲーム差をつけ、11年ぶりのリーグ制覇。オリックスとして、初の優勝を決めた。
翌96年には、リーグ連覇を果たし、巨人を倒して日本一。イチローというタレントを見出し、育て上げた仰木は、オリックスの黄金期を作り上げた。
「本人もさることながら、仰木さんもすごいですよね。『鈴木』というままだったら、どうだったんだろうと思ったりしますよ。イチローは、絶対にレギュラーになる、絶対にやる。その確信はあったでしょうけどね」
その横田の指摘は、何とも興味深い感がある。平成の時代が終わりを告げようとしていた19年3月、イチローも28年の現役生活に幕を閉じた。日米通算4367安打、19年にわたってプレーしたアメリカでも「ICHIRO」の名前は定着している。これが「SUZUKI」ならどうだったのか。ちょっと、想像がつかない。
その「ICHIRO」を、メジャーに送り出したのも、仰木だった。選手の能力を存分に引き出す手腕には、常に定評があった。野茂英雄、長谷川滋利、吉井理人、田口壮ら、メジャーにチャレンジした男たちは、仰木の薫陶を受けた選手が多い。
野茂が、体全体を大きくひねって投げる、独特の「トルネード投法」に対し、批判する外野からの声を、仰木は一切無視し、コーチ陣にも「触るな」と厳命。イチローも、右足を揺り動かしながらタイミングを取る「振り子打法」に対して、フォームの矯正や手を加えることなど、一切しなかった。
そうして「個」を尊重しながら、その一方で、実力をシビアに見極め、勝利という目的に向かって、最善の手を打つ。8年のオリックス監督時代にはAクラス6度。ただ、イチローのメジャー挑戦を容認し、イチローがいなくなった01年は4位。その年を最後に名将はユニフォームを脱いだ。ラストゲームとなった10月5日の近鉄戦(神戸)で、仰木を両球団の選手たちが胴上げした。
その後、仰木のいなくなったオリックスは、低迷を続ける。仰木が日本一に導いた96年以降、00年代に入ってから、オリックスは一度も優勝をしていない。
その低迷期に、球界再編の口火を切ったのは、オリックスだった。04年のシーズン途中に発覚した近鉄との合併構想に端を発し、10球団・1リーグ構想で突き進もうとした経営者サイドと、12球団維持を訴える選手会側の対立がシーズン中も続き、9月には史上初のストライキも断行された。
最終的に12球団維持、楽天の参入、ダイエーからソフトバクへの譲渡。オリックスと近鉄の球団合併も当初の計画通りに実行された。
その大混乱の中、仰木のもとへ、再び監督就任の要請が入る。
「オリックス」と「近鉄」が合併して、05年からスタートする「オリックス・バファローズ」という“新球団”の初代監督だった。
「新井、手伝ってくれ」
仰木から電話を受けた新井は、受話器の向こうで、驚愕していた。
本当に、やるつもりなのか――。
仰木の“命がけの戦い”が、始まろうとしていた。
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仰木彬の腹心・新井宏昌は、監督を退任した仰木とともに2001年にオリックスを退団。その後、03年からは、福岡ダイエーで一軍打撃コーチを務めていた。
小久保裕紀(前・侍ジャパン監督)、井口資仁(現・千葉ロッテ監督)らを擁する、強力な「ダイハード打線」に、さらなる磨きをかけ、後にメジャー移籍を果たす川崎宗則を不動のレギュラーに育て上げた。オリックス時代にもイチローのポテンシャルを見出し、コーチとしての理論と指導力には、監督の王貞治も一目置き、絶大の信頼を置いていた。
実は、新井が福岡ダイエーのコーチを務めていた当時、仰木は生活拠点でもある福岡で、肺ガンのために闘病生活を送っていた。入退院を繰り返す仰木のもとへ、新井はたびたび見舞いに訪れており、仰木の闘病している事実は、王にも新井から報告していたという。
その仰木からの電話だった。
「知っていて、仰木さんは連絡してきた。知っていたから、手伝わないといけないと思ったんです」
この人は、命を賭けて闘うつもりなんだ――。新井は、仰木の覚悟を即座に理解した。
現役時代、さらに監督時代と、新井は長く仰木のそばにいた。仰木の引き立てがあったからこそ、新井は「名コーチ」としての評判を得ることができたともいえる。
だからこそ、戻らないといけない。仰木にとっては“最後”になるかもしれない闘いを、そばで、最後の最後まで支えることが、最大の恩返しにもなるからだ。
「どちらのことも、どちらの選手も知っている。うまく球団を出発させる監督は、仰木さんしかいなかったでしょうから」
そう思っていた新井は、仰木の体調のことを知りながらも、新生オリックス・バファローズをスムーズに船出させ、そのかじ取りができるのは、仰木しかいないと感じていた。
「妻の体調があまりよくない状況なので、関西へ戻りたい」
新井が明かした“退団理由”だった。ただ、これは決して、オリックスへ復帰するための口実ではない。新井の妻も当時、闘病生活を送っていたといい、この取材を通し、新井が自ら、当時の内幕を明かしてくれたことを付記しておきたい。
同一リーグのライバル球団への移籍を認めるためには、ソフトバンクにとっても、組織としての大義名分が必要なのだ。
「それならば、仕方がないな」
それは王の“暗黙の了解”でもあった。ソフトバンクを退団した新井は、仰木の参謀役でもある一軍ヘッドコーチに就任した。
当時、阪神で二軍守備走塁コーチを務めていた松山秀明も、仰木からの要請を受けると、迷わずオリックス復帰を決断している。
「監督になられる前から、体調が悪いというのを、僕らも知っていましたし、仰木さんをカバーするために戻りました。監督の負担を少しでも減らせるよう、それが目的で戻ってきたんです」
松山も、かねてから仰木に目を掛けられていた一人だった。PL学園高では、清原和博と桑田真澄と同学年で、松山が主将だった。そのリーダーシップもさることながら、野球をよく知り、堅実なプレーをこなす上に、ガッツもある松山は、仰木好みのプレーヤーの一人でもあった。
「グラウンドで死んだら、本望や」
松山は現役時代、仰木から何度となく、そう聞かされたことがあったという。仰木のもとへ戻ると決意したときに、松山の心中を去来したのはその「仰木の言葉」だったという。
「変な話、それを感じたんです。本心だったんでしょうね」
それでも、仰木のふるまいは“不変”だった。新生・オリックス・バファローズとして初めてのドラフト会議を前に、全国的には無名の存在だった逸材、トヨタ自動車・金子千尋(現・北海道日本ハム)を自由獲得枠での指名を確実にしていたが「一番いい選手に行かない手はない」と東北高のエース・ダルビッシュ有(現シカゴ・カブス)に、競合覚悟で1位指名に乗り出そうと主張し、話題を呼んだ。
さらに、仰木の本領発揮ともいえる言動で、スポーツ紙やテレビを連日、にぎわせていた。
清原よ、俺のところに来い――。
巨人で活躍の場が減少していた清原和博に「関西へ帰ってこい」と呼びかけたのだ。当時、スポーツ紙でオリックス番を務めていた私のもとにも、仰木にまつわる仰天の噂が、複数の筋から聞こえてきた。
仰木が、岸和田にいる。
菓子折りを持った仰木が、清原の実家がある大阪・岸和田を何度となく訪問していたという。清原のオリックス入りを口説くため、両親のもとへ足しげく通っていたのだ。留守のときには、家の前に立ち、両親が帰ってくるのを、ずっと待ち続けていたというのだ。
仰木が指揮を執った05年には実現しなかったが、清原は翌06年、その「遺志」を受け、巨人を退団すると、現役最後の3年間をオリックスでプレーした。
05年の沖縄・宮古島キャンプには、仰木の要請で、当時マリナーズでプレーしていたイチローも現れた。わずか3時間滞在の日帰りという強行スケジュールの中、練習に参加している。合併球団を盛り上げるために、あらゆる手段を繰り出す。これも「仰木マジック」だ。
ただ、合併球団でプレーする当の選手たちは、そのチームカラーの混じり具合に、しっくり来ていなかったところがあったという。
「オリックスはおとなしい。近鉄は、はっちゃけている。やっぱり2つに分かれる。秋季練習をやってみても、それは感じました」
当時、近鉄からオリックスに移籍した大西宏明(現・関西独立リーグ・堺球団監督)は、そう証言する。どことなく、違和感がぬぐえない日々が続いたが「みんなで、うわーっと何かをするとか、そういうのは本当になかったですね」と大西。結束を呼び掛けるような、ありきたりのミーティングなどはやらない。それも変わらぬ、仰木のスタイルだ。
新生・オリックスの開幕となる3月26日の西武戦。大西は「三番打者」に抜擢された。西武の開幕投手・松坂大輔との相性がよく、PL学園高3年夏、横浜高と演じた「延長17回」の一戦でも、大西は松坂から3安打を放っている。
そうした相性、対戦データ、選手の気性。すべてを踏まえた上で、まだレギュラーとは呼べない、プロ3年目の24歳を、開幕戦でクリーンアップの一角に据える。それが、近鉄とオリックスの両球団を優勝に導いてきた、仰木の采配なのだ。
「うわ、俺、今年、これでいけるんやと思ったら、次の日、スタメン落ちでした。最初は、クエスチョンだらけでした。あれ? 俺、何か悪いこと、したかなって」
大西は、仰木流の采配にも、当初はなじめなかったという。当時の中心選手だった谷佳知の代打に大西が指名され、送りバントを命じられたこともあるという。大西は近鉄時代、オリックス時代の仰木のマネジメント・スタイルを体験していなかった。キャリアの浅い若手選手にとっては、それはやむを得ない。
「申し訳なかったんですけど、そこまで仰木さんのことを知らなかった。名将で、名前は聞いたことはあるけど……くらいで、直観系の方なのかなと思っていたんです」
大西は“仰木の真意”を知ろうと、チームの先輩たちに聞いて回ったという。データを駆使し、あらゆる組み合わせの中から、その日の起用を考える「仰木マジック」のことを、初めて知ったという。
表情に出ないが、内心は熱い。打っても、守っても、そつなくこなせる。そうした大西の持ち味も、仰木はしっかりと把握していた。
その年からスタートしたセ・パ交流戦の最中だったという。練習中に仰木がふと、大西のところへ近寄ってきた。
「明後日、いくからな」
今日でもなく、明日でもなく、もう一日先。そうやって、気持ちを盛り上げさせた上で、試合で一気にスパークさせる。それが、大西のようなタイプには効くのだ。
「必死こいて、準備するじゃないですか」と大西。その仰木の狙い通りに活躍した翌日に「大西は貪欲なファイターやから」という仰木の談話を、大西は新聞紙上で目にした。
「そういう部分で、見てくれていたのかなと。うれしかったです」
仰木イズムが、また少しずつ、新生・オリックスに浸透していく。そうした日々の熱き戦いが繰り広げられていく中で、仰木の体調は少しずつ、悪化していた。
「僕らの前では、一切見せないですし、選手の前でも、絶対に見せない。本当に、春先は元気にされていましたけど」
松山も、仰木の体力が日に日に落ちていくのを感じていたという。西武ドームでの試合後、ビジター球団はベンチ裏から100段以上ある階段を上がり、関係者駐車場に停まっているバスに乗り込み、宿舎のホテルへ戻っていく。しかし、夏場を過ぎたころから、試合後の仰木にはもはや、階段を上る体力も気力も残されていなかった。
「ちょっと、頼んだぞ」
新井にそう言って、試合中に監督室で横になっていたこともあったという。
ホームゲーム当日、新井は仰木を車で送迎するのが日課だった。
「ちょっと、倒していいか?」
車内で、新井に必ずそう告げてから、仰木は助手席のシートを後ろに下げたという。その角度が、日ごとに深くなり「後半は、フルフラットになっていました」と新井。試合後にはもう、自分の体を支えられないほどに、体力を消耗していた。まさしく、自らの骨身を削って、グラウンドに立っていたのだ。
合併1年目はリーグ4位。仰木は、GMの中村勝広に後を託すと、監督を1年で辞任した。
勇退表明は9月29日。
それから、わずか77日。
合併球団を、船出させる。その重要なミッションを成し遂げた仰木彬は、05年12月15日、70歳で、この世を去った。
「いつ、どうなるか分からない。受けるときに、そういう覚悟だったんでしょう。その責任は、まっとうされたと思います」
最後の最後まで仰木を支え続けた新井はその後、オリックスで二軍監督、広島でも打撃コーチなどを務め、67歳になる今季、11年ぶりにソフトバンクの二軍打撃コーチに復帰した。
川瀬晃、三森大貴ら、かつての川崎宗則のような左の好打者タイプが多く、次代を担う若手打者を、もう一段ランクアップさせるために、球団会長の王が再び、新井を招へいしたのだ。
松山も、新井とともにソフトバンクの二軍で、内野守備走塁コーチとして、若手指導にあたっている。仰木の座右の銘「信汗不乱」は、松山にとって、大事な言葉だ。
流した汗を信じて、一心不乱に野球を追求していく。その“仰木の造語”にこめられた思いを、指導者となった今も松山は、大事にしている。
「仰木さんは、それだけの思いで野球に取り組んでこられた。仰木さんのような能力のない僕らは、遊び半分に野球をやれない。野球人として、命がけで野球に取り組み、この仕事に向き合う。命を賭けて、取り組まないとあかんのですよ」
松山をはじめ、仰木に育てられた男たちは今、各球団でコーチや監督となり、アマ球界や独立リーグでも指導者を務めている。
高村祐、村上隆行、清川栄治、山崎慎太郎、福良淳一、新井宏昌、松山秀明、大西宏明。今回、仰木の軌跡をたどる取材で、仰木の思い出を語ってくれた野球人たちは、今もなお、野球界に深く根を下ろし、活躍している。
「今、どの球団にもいるんじゃないですか? ね、仰木さんの教え子ばっかりなんですよ。今、仰木さんの教えが生きている。だから、あのころから、仰木さんのやり方って、ずっと先を行っていたってことなんですよ」
ソフトバンクの一軍投手コーチを務める高村の言葉に、こちらも大きくうなずかされた。
俺についてこい。ごちゃごちゃ言わんと、言ったとおりにやっとけばええんや。かつての野球界は、そうした上からの一方通行の指導法が、半ば当たり前の世界でもあった。しかし、今はその“理屈じゃない”というやり方では、誰もついてこない。
一人ひとりに対して、きちんと指導者が向き合う。そのために選手を見て、言葉で伝える。そうした“きめ細かなマネジメント”でなければ、今の選手は動かない。ひいては、個の集まりでもある組織も動かない。
仰木は、選手たちを実によく見ていた。そこに「データ」という、客観的な指標も駆使することで、選手たちを納得させた。今の時代にも完全にマッチするやり方だろう。
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2019年4月29日。
存命していれば、仰木は84歳になっていた、仰木の誕生日にあたるその日の西武戦が、平成の時代にオリックスが最後に戦うラストゲームとなる。
監督、コーチ、選手全員が、仰木の背番号「72」を背負い、ブルーウェーブのユニフォームで、その試合を戦う。
それにしても、平成のラストゲームが「仰木の誕生日」とは、あまりにも出来すぎた演出ではないか。それすらも、平成最後の“仰木マジック”なのかもしれない。
そんなことを、ふと感じたりするのは、なぜだろう。
おう、見とるぞ。
ちょっと高めの、よく通る仰木の声が、天国から聞こえてきたような気がした。
記事・画像はベースボール・マガジン社提供