藤田義隆通訳が勇退 近鉄時代から40年サポート 「幸せな時間」

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大きな拍手と共に始まった外国人選手のヒーローインタビュー。選手の隣で微笑みながら頷くのは、口ひげとメガネがトレードマークの藤田義隆通訳(65)だ。外国人選手の言葉を関西弁混じりで丁寧に日本語で伝えるおなじみの姿は、ファンの間でも長年親しまれてきた。40年にわたりバファローズを支えてきた藤田通訳は、今シーズン限りで勇退する。温厚篤実な球界最年長通訳は、リーグ連覇の花道に喜びを嚙みしめながら「とても幸せな時間でした」とこれまでの球団人生を振り返る。

◆近鉄時代から

藤田通訳は英語学校を卒業後、1983年1月に近鉄バファローズに入団。89年に本塁打王とMVPに輝いたラルフ・ブライアント選手をはじめ、91年の打点王ジム・トレーバー選手など、球史に残る外国人選手もサポートしてきた。球団統合後も変わらず従事し、07年には、近鉄時代にも担当したタフィ・ローズ選手と再会を果たした。これまで支えた外国人選手は120人を超える。

◆初仕事で大役

藤田通訳の球団ライフは、伊丹空港でスタートした。当時25歳の藤田通訳が空港内の指定された会場に行くと、大勢の記者たちが集まり、何10台というカメラがずらりと並んでいた。アメリカから来日する新外国人マイク・エドワーズ選手の入団会見場。そこで言い渡された初仕事は、その大勢のメディアを前にした会見の通訳だった。
思いもしない大役に「面食らいましたね。学生上がりで、通訳経験もまだ少なかったので…。少々トラウマの記憶です(笑)」。会見終了後は放心状態。しばらく席から立ち上がれず「これはえらいことになった…」と心の中でつぶやき、球団通訳としての自らの行く末を案じたそうだ。

(写真:7月、マッカーシー選手と共にお立ち台に上がった藤田通訳)

◆一から信頼関係を築く

ほろ苦い通訳デビューとなったが、徐々に不安は解消されていく。外国人選手と密にやり取りする中で、野球への理解を深め、専門用語の語彙も身に付けていった。
「外国人選手のマネージャー的な役割。日本で言葉や生活に困ること全般を担当します」と藤田通訳が話す通り、仕事は多岐に渡る。野球の考え方や文化の違いに悩む選手に寄り添うのはもちろん、時には、選手と共に生活する家族へのサポートも行う。難しい場面も多くあったが、一から信頼関係を築き上げることにやりがいを感じていった。
信頼を得る鍵は「いつも同じ姿勢で接し、頼まれたことを当たり前にきっちりとこなすこと」という。選手が活躍している時もそうでない時も決して態度を変えず、淡々と仕事することを心がけた。ただし、線を引くのではなく、選手と共に過ごす時間を大切にし、いつでも頼れる安心感を醸し出す。「フジ」という愛称を名乗るのも、外国人選手が発音しやすく親しみやすいようにと考えた、藤田通訳なりの心遣いの一つだった。

(写真:ジョーンズ選手とのヒーローインタビューに臨む藤田通訳)

◆忘れられない本塁打

藤田通訳が「一生忘れられない」記憶がある。昨シーズンの日本シリーズ第5戦。9回にアダム・ジョーンズ選手が左翼席に叩き込んだ劇的本塁打だ。「スタメンではなくても、代打の切り札として一番大切なところで打った姿は、強烈でした。目に焼き付いています」。ヒーローインタビューでは共に壇上へ。スタンド席で、ジョーンズ選手の家族が大はしゃぎして手を振る姿を見ると、藤田通訳の喜びも倍増し、気持ちが高ぶった。緊張することが多かったお立ち台での仕事だが、落ち着いてジョーンズ選手の歓喜をマイクに乗せられた。
インタビューの最後を「サイコウ!」とシャウトして締めくくったジョーンズ選手。藤田通訳も全く同じ気持ちだった。「選手と私は“運命共同体”ですから」。

(写真:「支えてくれてありがとう」と記された特別ユニフォームを安達選手から受け取る藤田通訳)

◆エキサイティングな40年

この40年間を「とてもエキサイティングだった」と振り返る。「ベンチで選手と共に試合の中にいられる。一緒に一喜一憂できる。こんな仕事はなかなか無いですから」。10月26日に行われた選手会からのお別れのセレモニーでは「この年になっても若々しい気持ちでいられたのは、皆さんのおかげ。これからもテレビで応援し、若さを保ちながら人生を歩んでいけたら」と温かな感謝の言葉を述べた。
外国人選手のみならず、多くの球団関係者から慕われ、愛された40年だった。「この仕事が、本当に好きでした。ありがとう。最高の気持ちです」。惜しまれながら、充実感に満ちた表情でグラウンドを後にする。(西田光)

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